「なあ、みつやは三万あったらなにに使うのが一番良いと思う?」
遊び場への移動の最中にハルトモの弟の朋康が、当然といった顔で質問してきた。
みつやはそういった質問をされることを予測していたので、事前に答えを用意していた。
「そうだな、昨日発売したゲームソフトを買って、好きな漫画を買って、それから…」
すらすらと詰まることなく、みつやは言う。
「もういい、黙れ、馬鹿!」
それを質問した張本人である朋康が途中で遮った。
「な、なに?」
急な打ち切りにみつやが驚いた声を出すと、朋康は高々とこう言ってのけた。
「おまえの答えはつまらないんだよ、そんなの単純に今欲しい物を羅列してるだけじゃねえか、
そんなの知恵の足りない奴のすることだぜ」
三万円で欲しい物を如何に効率良く買うのが計算するのに苦心したみつやは朋康の言うことが納得いかなかった。
「じゃあ、おまえはなにに使うっていうんだよ」
甲高い声を濁らせて、みつやは不満を漏らす。
すると、朋康は頬の辺りをピクピクと動かして、自信を一杯に浮かべた表情ですぐさまに焼けた声を荒げさせた。
「俺はマウンテン・バイクを買うね、こいつがあればどこまでだっていけるぜ、ヤァ!」
一瞬、みつやは朋康がなにを言ったかわからなかったが、すぐに把握した。
ああ、こいつやっぱり馬鹿なんだ。
「マウンテン・バイクがあればちょっとくらいの山だって楽勝で越えられるんだぜ、そうしたら、
自力で隣町くらい楽勝でいける、時間さえあれば日本中を回れるんだ、こいつは滅茶苦茶すげえぜ!」
朋康はでかい声で身振り手振りを交えながら、嬉々としてマウンテン・バイクの魅力について力説する。
みつやは朋康になにも言う気がしなかった。
「ハルは三万円でなにをするのが一番良いと思っているんだ?」
口直しならぬ耳直し代わりにみつやはハルトモの兄、春信に同じ質問をしてみる。
「そうだな……」
春信は鷹揚に頷いて、目を細めながらこめかみの辺りを押さえる、という独特の思案顔をつくった。
そして、少しの間、そのままでいた後に、ゆっくりと苦々しく口を開いた。
「最初に言ったと思うんだが、三万なんてはした金だ、大したことはない、高が知れている、
そこで……だ、これを増やす」
「……どうやって?」
「競馬、パチンコ、まぁ最近だとネットオークションってのもありだ、出来れば、株、といきたい所だが、
それにはちょっと元手が少なすぎるしな」
誰だって三万円が増やせるのならば、そうする。春信の言うことにみつやは感心したが、同時にこうも思った。
それ、小学生に出来んのかよ。
百歩譲ってネットオークションは親にかわりにやってもらうことくらいは出来るかもしれない。
けど、息子のかわりに馬券を買いに行ったり、一緒のパチンコ屋で両隣に座って台を打ったりする親が
いるわけがない。
「多分、それは無理なんじゃないか?」
みつやがやんわり指摘すると、春信は余裕たっぷりに首を横に振った。
「みつや、真の英雄って奴は物事を成と否で判断するんじゃねえ、諾と否で判断するんだ、わかるか?」
「いや、全然」
「つまり、首を縦に振るか、横に振るかってことなんだよ、英雄は」
つまり、と言い換えられてもみつやは春信が言っていることはさっぱりわからなかった。
一つ確かことがあるとすれば、春信は同年の友達ってことだけだ。
どう見違えても英雄ではない。少なくとも今はまだ同じ子供である。
「なあ、ハル、俺達…」
もう一度みつやは指摘しようとする。
「わかってるよ、でも、それでもやるのが英雄なんだよ、みつや」
目を閉じて落ち着いた声で春信がそう言ったので、みつやは押し黙った。
春信は自分が多くの柵に囲まれていることを熟知している。ならば、後は何を言ったところで
余計なお世話になる。漠然とした感覚だが、みつやは既に弁えていた。
しかし、ここにわかっていない奴が一人いた。
「でもよ、兄ちゃん、金が増えたって幸せになれるとは限らないんじゃないか?」
トモだ。まんまと物知り顔を浮かべて、ぬけぬけと口を動かしている。
これは、まずい。みつやは恐る恐る春信の方を見た。
春信は目を閉じたまま浅く俯いている。
注意深く観察すると、その桜色の唇がへの字に曲がり、震えていた。
「……おまえ、俺の話を聞いていたか?」
声もなんだかガクガクしている。
「聞いていたよ、三万なんてはした金じゃ高が知れているから増やすってんだろ、でもよ、増やす為に
努力しなきゃならねーじゃん、それって不幸じゃん?」
「……で?」
「だから、兄ちゃんのやり方は幸せじゃねえ、ていうか、メンドクセー」
焼け荒れた声をやたら垢抜けさせて、朋康は堂々とほざいた。
みつやは端で朋康の声に耳を傾けている。
取り分け発言の内容に心を動かされたわけではない。
さっきはほとんど差のなかった二人の声が今は全然違うことに気付いたのだ。
それと、これから起こる厄介事を意識的に忌避したのである。
「馬鹿が!」
閉じていた目をかっと開いて、春信は頬が赤くなるくらい力一杯に叫んだ。
厄介な事態が起こってしまったことを、みつやはこれで悟った。
まさに突然、大地から火が噴き出すような惨事が始まってしまったのである。ハルトモの兄弟喧嘩が。
「面倒なことを片付けた先にこそ真の栄光は待っているんだ、ただなんとなく掴んだ物になんの価値がある?
何もないだろうが!」
「そうかなぁ、別にいいじゃん、とりあえず幸せならば」
「良い訳あるか、この馬鹿野郎が!」
顔の赤みがいよいよ深まった頃、春信が朋康の頬を思いっきり殴りつけた。
ガクリとよろめいて朋康は痛む箇所を押さえる。
まずい、まずいよ。
みつやは必死で二人の喧嘩を止める方法を考えながら、成り行きを見る。
頭が良いのは春信の方だが、体力があるのは朋康なのだ。
安全なルールのあるスポーツならば話は別だが、喧嘩となるとみつやも朋康を相手に勝てる気がしない。
奴には一種の動物的な感覚が備わっている。
「やりやがったな、このくそ、ハルゥ!」
怪獣みたいに喚き散らしながら、朋康は春信の腹に前蹴りをくらわした。更に追い討ちで、
顔面に硬い拳を叩き込む。
「馬鹿のくせにやりやがったな!」
春信も負けていない。もう一発、朋康のことを殴りつけた。
「だいたい、マウンテン・バイクで日本一周なんて出来るわけないだろうが!」
「それを言うなら、ハルだって無理なことを言っていたじゃねえか!」
「うるせえ、俺はやるんだ!」
「俺だって、俺だって、俺だってぇ!」
二人の殴り合いは勢い良く加熱していく。
戦況はやはり朋康の方が優勢だった。春信が一発殴ると、朋康は少なくとも二回は反撃する。
二人の体格に差はないのだから、数多く攻撃を受ける方がダメージを多く受ける。
その証拠に徐々に春信の攻撃回数は減っていく。身体が利かなくなっているのだ。
そこへ、朋康は一層たたみ掛ける。このまま続けば、間違いなく朋康の勝利で決着はつく。
しかし、みつやは黙ってその時を待ちたくはなかった。
ハルトモの喧嘩はどちらかが動けなくなるまで続く。奴等に限って、自分の負けを認めるわけがない。
特に、自分と生き写しの存在に屈服するなんて、ハルトモの矜持が許すわけがないのだ。
みつやにとって春信と朋康のどちらも分け隔てなく大事な友人である。
朋康は馬鹿だけど、気が良い奴なのだ。誰よりも明るくて一緒にいると楽しいし、気が大きくなる。
春信だっていつも胡散臭いことばっかり言うけど、根がしっかりした奴なんだ。かわりなんていない。
そして、なによりハルトモは二人が揃って成立する。どちらか片方しかいないなんて有り得ない。
あってはならないんだ。
「やめろ!」
みつやは叫んだ。後先なんてわからない。
二人の怒りを静める為の上手い言葉の持ち合わせなんて皆無、すっかり空白が頭の中を埋め尽くしている。
それなのに、みつやの口は勝手に動いていた。考えてやったことじゃない。自然に起きた行動だった。
「なんだよ、みつや、止めるんじゃねえ!」
「てめえもやられてえか!」
ハルトモの二人が今にも飛び掛ってきそうな勢いで食って掛かってくる。
二人とも壮絶な殴り合いを行っている最中だったから気が立っているのだ。
ヤバイ、このままじゃ消そうとした火事に自らが焼かれてしまう。
みつやは必死になって二人の頭を冷やす方法を考えた。
が、駄目だった。
「いや、その…ごめん」
理由もなく、みつやは謝ってしまう。
失敗だ。殴られる。ぐっと目を閉じて、覚悟をみつやはした。
真っ暗闇の中で、訪れる痛みを待つ。一秒…十秒…一分間…
あれ、来ない。
みつやはすっと目を開ける。すると、そこには二人揃って同じ表情をしたハルトモの二人がいた。
「ったく…なんで、おまえが謝るんだよ」
「いや、その…」
自分でも意味不明なのでみつやは何も言えない。
「もういいよ、兄ちゃん、俺達が、悪いんだぜ」
「だな、悪かった、みつや、この通りだ」
いつもより苦味の薄れた声でそう言って春信は頭を下げる。朋康もそれに続いた。
一体、なにがどうしてこうなったのか、みつやは把握することが出来なかった。
「いや、別に俺は…」
はっきりしないから、みつやはモゴモゴと口籠るしかない。
「しかし、あれだな、どうせ、もしも、の話でここまで熱くなるなんて、俺達もまだまだってことだな」
「その通りだぜ、兄ちゃん」
みつやがノロノロとしている間に、ハルトモの二人はあっさりと仲良さげに会話をしている。
その様子を見て、みつやはどうにか現状を理解した。始まりと同じに、ハルトモの兄弟喧嘩は
終わりも突然なのだった。
「あー痛い、痛い、割に合わないわ、これじゃあ」
「ま、つまらないことで喧嘩した報いだな、これは」
「あぁ、そいつは違いねえや」
「だろ? 俺の言うことは正しいだろ」
「へーへー、まったくその通り、いつも兄ちゃんの言うことは正しいだーよー」
時々、笑い声をあげながらハルトモの二人は楽しそうに会話をしている。
さっきまでの殴り合いが、まるで虚構だったかのような親密さだ。
一方、みつやは二人に取り残されて沈黙してしまっている。
二人が本当に仲直りしているのか確認していた僅かな間に、ハルトモの二人の距離感がグッと近付き、
容易に会話に混じることが出来なくなってしまったのだ。
二人の会話に隙間が出来るのをみつやは待つ。
しかし、みつやが機会を窺っている間にまたも二人の雲行きが怪しくなってきた。
「なんだよ、それ、馬鹿にしやがって、おまえみたいな奴に馬鹿にされるのが一番腹が立つんだよ、俺は」
「いちいちうるさい兄ちゃんだな、かわいい弟の軽口くらい少しは大目に見ろよ」
「馬鹿、おまえなんてかわいいわけがあるか!」
「んだよ、それ、同じ顔のくせに」
誰よりも近しい間柄であろうと、度を越えた戯れは争いの元になる。
親しき仲にも礼儀あり、って奴だ。
二人の間を繋ぐ歯車は狂い始めた。そこから生まれる隙間をみつやは見逃さなかった。
「おまえ等やめろよ、またつまらないことで喧嘩するつもりか」
甲高い声をいつもより釣り上げて、みつやは二人の間に割って入る。
決まった。これでハルトモの喧嘩が未然に防げた上になんら不自然な所はなく会話に入り込むことが出来た。
大成功だ。
みつやはわくわくしながらハルトモの二人の返事を待つ。
すると、ハルトモの二人は表情をガラリとかえて、寸分の違いもなく同時にこう言った。
「うるせえ、おまえの言うことが一番つまらねえんだよ!」
見事に揃ったハルトモの声は厳しくみつやを罵倒する。みつやはただただ萎縮するしかなかった。
「とりあえず、さっさと行こうぜ、これじゃあ林に着く前に日が暮れちまうぜ!」
「ああ、時間は待ってくれないからな」
ハルトモの二人は陽気に言い放って、悠々と歩き出す。トボトボと黙ってみつやも二人に着いていった。
今は三月の半ば、花はつぼみを膨らまし、日はゆっくりとその存在感を増していく。
小学校が春休みを迎えた為に、みつやとハルトモは飽きることなく日々を遊びつくしている。
彼等は、川魚が水面を跳ねた時に生まれる水飛沫の様に透明で短いシーズンをひたすら輝かせていた。