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 肌に触れるとまだまだ冷たい三月の風が吹く。

 多くの木々が太陽の光を遮る為にその路地は薄暗く、底冷えする。

「くそぉ……」

 ようやく立ち上がったハゲじいはお腹の辺りを擦りながら、深く唸る。

 朋康に殴られた部分がまだ傷むのである。

 後、十年は若かったら、あんなガキに遅れをとることはなかった。

我が身の衰えを実感すると、ハゲじいは悔しくて堪らなかった。

若い頃は身体一つで猛獣が巣食う密林に一ヶ月は滞在していたというのに、今やこのザマである。

 

出来ることならば、あの頃に戻りたい。

 

「ハッ、そんなもん、クソ喰らえじゃ」

 ハゲじいは半ば無理矢理に自分の思考を打ち切った。

 間違いは数多く、順風満帆とは遠い人生だったが、やり直しを要求する気はなかった。

ずっと最善と思うことをしてきたのだ。仮にそれが悪い結果になったことでも、ハゲじいに後悔はなかった。

それにひょっとすると、夜中に夢見るくらい待ち望んでいたものが、ついに近くに現れたのかもしれないのである、

今更戻るなんて言語道断だった。

「くくっ、最後にでかい一花を咲かせられるかもしれんわけじゃ、これだから人生は止められんわ!」

 ハゲじいは誰に聞かせるわけでもないのに、バキバキと大声を出した。

 随分と盛大な独り言である。 自らの脳内構想世界にハゲじいは旅立ってしまっている。

こうなると、ハゲじいはちょっとやそっとで帰って来ない。

林の中に入った三人の子供のことなんて忘れて、ハゲじいは路上にしばらく立ち尽くす。

 

そこへ、誰かがガサガサと慌て気味に声をかけた。

 

「ちょっと、おじいちゃん、大丈夫?」

 声は安穏に泳ぐ稚魚が上から覗ける河のように透き通っているが、生憎、ハゲじいには届かない。

沈黙したままでハゲじいは立ち尽くす。

「え、聞こえてないの・・・おじいちゃん! 本当にどうしたの?」

 声をかけただけでは駄目だと判断したのだろう。声の主はハゲじいの身体を強請りながら、
さっきまでより強く呼びかける。

「う、ああ、大丈夫、大丈夫じゃ、記者会見はまた後でな」

 辛くもハゲじいは自分を呼ぶ声に返事をした。

頭の中はまだ遠くの方へいってしまっているが、身体は先に現実を認識し始めたのである。

「もう、しっかりしてよね、こんな所で一人で立っているんだもの、おじいちゃんが昇天したのか
と思っちゃったよ、あたし」

「ははっ、すまんの、珠子ちゃん」

「フン、謝られたってなんの足しにもならないよ」

 珠子こと、浅野珠子は軽く口を尖らせた。身長はハゲじいの胸の辺りまでしかない。目は丸くグルッとしていて、
小鳥の嘴みたいにちんまりな口をしている。
身体にぴったり合って動き易い上に、色鮮やかな服を見事に着こなしており
とても可愛らしい少女、といった外見だが、お高くとまっている態度はない。愛嬌と好奇心が小さな身体から湧き出ていた。

この林の近くに住んでいるから、珠子はハゲじいと顔見知りだった。

珠子の方も三人と同様にハゲじいからお説教をされたり、お菓子を貰ったりしているうちに親しくなったのである。

ちなみに、珠子の方がみつや達よりもお菓子を貰う回数は多かった。

「そんなに不機嫌そうな顔をしないでくれ、そうじゃ、今度、わしの取って置きをくれてやろう」

「やったぁ、ありがとう!」

 ハゲじいの甘い言葉に珠子は大げさに喜んでみせる。

 珠子は大人から恩愛を受ける術を良く心得ていた。

 

ていうか、だいたいみんなロリコンなのである。

 

「ところで、おじいちゃんはこんな所でなにをしていたの? しかもたった一人でさ」

 おべっかを振り撒いた後、即座に珠子は本題に入った。

 珠子はなんの目的もなく、偶然ここを通りかかったわけではない。十分な理由が珠子にはあった。

 ハゲじいに話したのは、あくまで手段に過ぎないのである。

「んあぁ、ちょっとのぉ、襲われたっちゅうか、下手こいたちゅうかの……あ、あれじゃ、つまづいたんじゃ!」

 ハゲじいはまごまごと言葉を濁した。明らかに嘘をついている。

 それを珠子は許さない。

「ちょっと真面目に答えてよ!」

 拳を軽く握り、太鼓を叩くようにブンブン振りながら珠子は訴える。

 珠子は無意識的に自らを愛嬌のある人間に見せる方法を実行している。

いつも結果を見て、珠子は納得するのである。

 

あぁ、これで堕ちた、と。

 

「仕方ないの、他の連中には情けないから黙っていてくれよ」

 渋々と前置きをしつつ、ハゲじいは自分がたった一人で立ち尽くすに至る顛末を話した。

「それにしても奴等め、三人がかりでいたいけな老人を襲うとは、卑怯な!」

 ハゲじいの話には多少の脚色があった。

 しかし、珠子はそれを意に介さなかった。何故なら、彼がそんなことをする筈がないと信じているからである。

「で、憎きクソがき共はわしのことを放って林の中に入って行ったんじゃ」

「で、おじいちゃんは身体が痛くてしばらく動けなかった、とかそんな所?」

「ん、ああ、ハハハ、そうじゃ、そうじゃ!」

 ハゲじいは豪快に顔を崩す。

 

 このウソつきジジイ……

 

 珠子は笑って誤魔化そうとするハゲじいに内心で呆れた。

 身体が痛くて動けなかったというならば、倒れているなり、蹲っているなりしている筈である。

最初に会った時にハゲじいはなんだか知らないが堂々と立っていた。身体を痛めているようには全然見えなかった。

 ハゲじいが言ったことは真っ赤な嘘。子供だと思ってなめているのである。

 

 ふん、肝心なことが聞けたから、もういいけど。

 

ハゲじいの話に珠子は興味をなくした。珠子が聞きたかったのは三人の行方、いや正確には三人の中のたった一人である、
珠子の目的は。

「はて、そういえば珠子ちゃんはこんな所で何をしているんじゃ? しかもたった一人で、まさか林に入ろうとして
いるんじゃあるまいな…?」

 ギョロッと目を開いて、ハゲじいが真剣な表情をして顔を珠子に近付ける、

「別に、いつものシロちゃんの散歩よ、まあ、あの子は一人でどっか行っちゃったけど」

 珠子はきっぱりとハゲじいの問いに答えた。

 自宅で飼っている猫のシロと珠子は一緒に散歩をする。一日に一回、確実に行う珠子の日課だが、それは所詮建前である。

 珠子がここに来た本当の理由とは、彼を見たからだった。

珠子はほんの数分前にすっと視界に入って通り過ぎて行った彼を追いかけて、ここまで来たのだった。

しかし、珠子のこれ以上の追跡は無理だった。林の中にに一人で入るのが怖いのである、珠子は。

「じゃあシロちゃんもそろそろ戻っているかもしれないんで、今日は帰りますね」

「ん、ああ、気を付けてな」

「ええ、おじいちゃん、またね」

 早々と挨拶を済ませて、珠子は来た道を引き返した。

 珠子の心はまったく失意していない。自分の行動が期待外れに終わったというのに、珠子は少なからず満足していた。

 そう、全ては愛の為に動いているからである。