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 時折、木と木の間を覗き込みながら、みつやは歩く。誘拐犯なんているわけがない、と頭の中で考えつつも、
決して捜索に手抜きはしていなかった。

 三時間くらいまでは楽勝だな。

  みつやは楽観視していた。当てもない探索はみつやにとって大した苦ではないのである。みつやが帰宅を望んだのは、
誘拐犯の探索という目的に魅力がなかったからだった。例
えば、高い山に生えている美味しい茸を採るためというならば、
みつやはもう少しハルト
モの二人に賛同している。誘拐犯に遭うなんて、みつやにとっては危険に向かって自ら脚
踏み出すようなものなのである。
しかし、探索を始めると、目的はみつやの頭の中で瑣末になっていた。

 足を踏むごとに伝わる硬い地面の感触がなんとも心地良い。余計なことを考えて歩いて
いた時とは明確に違う。
 みつやは探索に集中し切っていた。

  三十分、一時間、一時間半

  雑念がないみつやが感じる時間は早かった。

 もう、戻ろうかな。

  ポケットの中の携帯電話を取り出して、みつやは時間を確認する。林の面積はだいたい学校の校庭より少し広いくらいである。
今の地点から三人で取り決
めた場所に戻るには、甘く見積もっても二十分はかかる。引き返すには、そろそろ妥当な時間帯だった。 みつやは素早く方向を定めて穏当に歩き出す。ハルトモの二人と散々遊び倒したおかげで、この林の地理はすっぽり入り込んでいる。迷ったり、道を間違えたりするようなことはしない。

  ほとんど時間通り、17時25分にみつやは集合場所の林の中心に辿り着いた。

  ハルトモの二人はまだ来ていない。一体なにをしているのか、みつやは少し気がかりだった。

  あいつ等、もしかしてまだ探しているのか。林の中心で一人で立ち尽くしながら、みつやの不安は募った。

 橙色が消えて、空は大半が黒に染まっている。既に夜が傍まで迫っているのだ。
 みつやは少しだけ空気が冷たくなるのを肌で感じた。早く帰りたいと願うものの、ハル
トモの二人が帰ってくる気配は一向にない。

 くそ、どうなっているんだ。

  みつやは軽い地団駄を踏み始める。いっそ、一人で帰ってやろうかって気さえしている。
 
「でも、流石にそれは嫌だな…」
 
  力なく呟きながら、みつやは大げさに頭を振る
   
  すると、みつやの背後から包装紙を無理矢理むしり取る時のような乾いた音がした。

 みつやの背筋が凍る。ハルトモの二人が帰ってきた。淡い期待を抱くものの、多分そうじゃなかった。風は吹いていない。
沈黙する林の中で、乾いた音だけが徐々に大きくなっている。
みつやはゆっくりと振り返った。

 大丈夫。なんてことはない。きっと、カラスかなにかが羽ばたいただけだ。

 必死に自分に言い聞かせて、みつやは恐怖を押さえ込む。一瞬の間にびっしりと汗をかいた背中が氷結しそうだ。
 暑くて汗をかいたのとは、当然違う。みつやは心胆を寒からしめられている。

 ズバリ、それは未知の生物と遭遇した人間としての本能がみつやに危険を告げているのだった。

「な、なにこれ…?」

 壊れかけのテレビみたいに視界が白黒に点滅した後に、みつやは恐怖の元凶を捉えた。

 みつやと五本の木を隔てた距離。

 子供の頃に乗っていた三輪車くらいの体格で、口に収まりきらないくらい異様に大きな牙を持った鼠。

 みつやの背後にいたのは、最悪に汚らしい化け物だった。

「グボボボボボ」

化け物が不気味な音を発した。化け物は鳴いているのではない。
 直接空気が喉首から漏れているのだ。更に身体中の至る所から、真っ黒い点滴が垂れ流しになっており、異臭まで発している。

こいつは、見るのも汚らわしい。

みつやの中にあった愛玩動物としてのネズミのイメージは見事に消え失せた。

背後にいたのは汚らわしい鼠。事実は酷くシンプルで不利益だった。
 みつやはまだ恐怖の元凶を見つけただけで、肝心要な点は何一つ解決していないのだ。

「グボォォォオ」

 鼠の化け物は盛大に空気を吐き出す。みつやは知らず知らずに身震いした。

 あの鋭い牙に喰い付かれたら、朋康にやられるみたいに歯形が残るだけじゃ済まない。一溜まりもなく、牙は身体を貫通する。

 無論、実際に鼠と対峙するみつやに具体的に危険を想定する力はない。

 しかし、浮かばない見通しとは裏腹にみつやの身体は如実に先を実感していた。

 どうしよう。殺されちゃうよ。

 暴れだしそうな頭を辛うじて落ち着かせて、みつやは考える。

 少し前にみつやはこの鼠に似た未確認生物の話をハゲじいから聞いたことがあった。

 ヤギの血を吸うという意味の名前を持つチュパカブラだ。
 名前の由来は、ヤギを筆頭に、ヒツジ、ウサギ、ニワトリ、アヒル、それに犬や猫といった大半の家畜を襲い地を吸うことにある。
アメリカ、ブラジル、メキシコ等のヨーロッパ人に発見された大陸で数多くの目撃証言があり、ちょうどそれ等は、みつやの目の間に
いる鼠の化け物の外見と一致していた。
 だが、日本でチュパカブラの目撃証言があったなんて、みつやは聞いたことがなかった。

先程のように荒唐無稽な時もあるが、話の中身が生物、特に存在が疑わしい未確認生物(UMA)になると、ハゲじいの情報は
理路整然としていて、尚正確である。
与えられた情報はみつやの頭にきちんと入力されている。間違いはない、筈である。

「グボ」

 突然、喉首から空気が漏れる音が止まった。

 ヤバイ、来る。

 化け物から攻撃の意思を感じ取ったみつやは腰を落として身構える、
 すると、その動きに呼応するように化け物も顎を開き、牙を立てる、

 酷いことに、化け物の真の武器は剥きだしの牙ではなかったらしい。
 顔面の末端に至るまで割れた口を一杯に開き、尖った舌のようなものを突き出したのだ。

 まさしく、チュパカブラかもしれない。

 みつやは化け物のとっておきを見て、考えをかえた。
 アイスピックのような鋭い舌。そいつを出し入れして、チュパカブラは家畜の血を吸い取るのだ。
 眼前の化け物の舌は鋭く、まさしくチュパカブラのものに見える、が、少々度を過ぎていた。化け物の舌はやたらメタリックで、
アイスピックというより最早ドリルである。しかも、ドリルは既に回転していた。

「おおい、本物だろ、あれ!」

 みつやはまるで現実味のない化け物の姿に興奮して叫んでしまう。

 それは、開戦の合図となった。

 四本の脚で力強く大地を蹴り、化け物は跳躍する。カタパルトから発射される投石の如く、少しも曲がらず一直線に化け物は
みつやの顔面を狙ってきた。

 みつやは目と鼻の先に迫ってくる化け物の下をくぐり込み、地面に転がり込む。

 ドッジボールの時と同じ要領だった。
 顔に向かってくるボールは、身体を反らして避けるのは危険である。直撃はせずに済むかもしれないが、肩や胸にかすって
しまう恐れがある。確実に避けるには、飛んでくるボールの下に潜り込むのが最適なのだ。

 ただし、その避け方を実行するには、いち早くボールに気付く反射神経と勇気がいる。向かってくるボールに対して、
逃げるのでなく前進。危険をいなすのではない。危険を突き抜けるのである。勇気がなくて出来ることではない。

 みつやはその必要な条件をどちらも兼ね備えていた。

 第一撃を辛くも避けたみつやは相対する化け物に背を向けて、すぐさま逃げ出す。
 あんな真っ黒で、汚いのに触られたくない。ちょっとでも命取りになる。身体が腐ってしまう。
 みつやの思い込みは深く、身体は正直に連動した。

闇が絵の具で塗り潰したみたいに濃い林を一筋の光になって駆け抜ける。枯れ枝は踏みしだき、石くれは跳び越す。後ろは見ない。
認識するのが怖いから、絶対に振り返らない。走る。走る。走る。スピード全開。疾走する。

だが、しかし、化け物を撒くには至らない。

化け物の体格は小さい。いくら耳を凝らしても、足音を捉えられはしない。みつやは相手の気配を背中で感じ取る。
 黒くて気持ち悪い極度の重圧が圧し掛かってくるのだ。

どんどん近付いてくるよ。

みつやは走りながら活路を探す。隈なく木々の間を視線で射抜いていると、みつやはある者の姿を発見した。

「おーい、みつや、なにやっているんだ?」

 朋康だ。やたら軽薄に龍出を振り上げながら、存在を際立たせている。

「馬鹿、見ろ! 見ろ!」

 みつやは精一杯叫んだ。野生の勘が働いたのか、はたまた、みつやの心が通じたのか、朋康は瞬時に事態を把握した。

「うぉい、なんじゃありゃ!」

 腰を落とし、両腕を避けそうなくらい開きながら朋康は驚愕する。

「早く逃げるぞ!」

 短く必死にみつやは朋康に呼びかける。もう少しで衝突するスレスレの距離で、朋康はみつやをかわし、並走を始めた。

「おい、なんなんだよ、あれ? なんで追いかけられてる?」

 両脚をしなやかに力強く躍動させながら、朋康がたどたどしく質問してくる。

「わ、わからない、いきなり現れて、俺を追いかけてきたんだ!」

「なんだよ、なんにもわからないのかよ!」

みつやはかすれた声でどうにか質問に答えるものの 朋康は納得しなかった。
 わけがわからないまま走りっぱなしだったみつやは反論する気力も湧かない。

「仕方ないだろ…」

 ぼそりと弱音を吐いて、なんとか溜飲を下げる。

 一方、朋康は落ち込み気味のみつやを無視して、提唱する。

「へい! へい! あれがもしかして誘拐犯じゃね! あれを倒したら英雄じゃね!」

 出来の悪いラップを歌うように朋康は韻を踏む。横で聞いていて、みつやはの気分は幾らか和らいだ。
 間抜けな朋康の所業が心地良い。みつやにとって朋康とのやりとりは自然で、馴染んだものである。この絶体絶命の状況下に奇妙に響く。

「でも、朋康、あれを倒すなんて無理だから、絶対に戦ったりしないでくれよ」

 調子を取り戻したみつやがくだけて話しかける。

「へっくそが!」

 朋康は目を閉じ、口を大きく広げて無念を顔全体で表現した。
 怯えたり、うろたえたり、といった惰弱な行為と朋康は無縁である。脳内の恐怖を感じる部分が朋康はほとんどぶっ壊れているのだ。

 図らずも朋康と合流し、みつやは意気を取り戻したが、体力の方は刻々と減っていた。
 既に校庭のトラックを三周分は全力疾走している。いつ脚が止まってしまっても、おかしくはなかった。

「グボボボボボボボボ」

 追いかけてくる化け物の速度は落ちない。依然、ゆっくりとだが、着実に距離を詰められている。

「おい、俺等、このままじゃやばくね?」

朋康が息も絶え絶えに言う。
 確かにこのままこうしていても朋康の言うとおりに、いずれ化け物に捉えられてしまう。なんとかしないといけない、が、
疲労しきった頭はまともに働いてくれなかった。

 春信ならばなんどかしてくれるかもしれない。

みつやはうっすらとそう考える。冷静沈着を絵に描いたような春信が、この状況を打破する案を思い描く。
 正解を用意してくれる。なんとかしてくれる。
両脚が重くなり、息が乱れるにつれて、みつやの期待は膨らんでいく。

それは、みつやの眼を塞ぐ暗闇になっていた。

「おい…!」

 朋康が余裕なく、不機嫌そうに言う。みつやは聴こえていない。

「おい!」

 より強く朋康はがなる。

「な、なに?」

 みつやは背中を待ち針で刺されたように反応する。朋康の声がほとんど聴こえてこなかった。やはり、みつやは疲れ切っていた。

「あれ」

朋康がさっと真横を指差す。その先、大声で呼べば届きそうな距離を離れて、春信が暢気に歩いていた。

春信のことだ。誰かが自分を探しに来るまでは好き勝手に林の中を探し回っても良いと判断したのだろう。すっかり寛ぎながら歩いている。

みつやは春信の姿を見て、大きく安心した。

「おーい、ハル!」

 我を忘れてみつやは春信を呼ぶ。迂闊にも後先は考えていない。

「馬鹿!」

 しなる鞭のように振りかぶって、朋康はみつやの頬を張る。

 みつやは事態を把握出来なかった。

「なにすんだよ!」

 みつやはわめく。すると、朋康は更に声を大にして、怒鳴り返した。

「おまえがそんな風に叫んだら化け物も兄ちゃんに気付いちゃうだろ!」

 朋康の一声で、みつやは心の琴線を無理矢理、引っ張られた。
 そう、朋康の言う通りだ。春信と合流すれば、確かに状況は好転したかもしれない。

 しかし、なんの考えもなく声を大にすれば、春信の存在が相手の化け物にも見つかってしまう。捕まれば、命はない。
 その上、化け物は俊敏だ。最初から逃げにかかっているから、みつやと朋康の二人はどうにか追い付かれずにいる。
 もし、化け物の存在を気取る間も無く襲われていたりしたら、一溜まりもなく殺されている。

そして、春信は勘が鈍く、危機を肌で悟る奴じゃない。いまだに一人で丹念に誘拐犯を探していることからもわかる。
春信は誰に見向きもされなくなっても、目的の為ならば省みずに行動を続ける大馬鹿野朗だ。化け物の接近にもきっと一人じゃ気付かない。

「おい、まずいぞ、あの化け物、いなくなりやがった!」

 朋康が声を震わせる。次いで、みつやも背中に圧し掛かっていた圧力が消えたことに気付いた。
 慌てて振り返り、みつやは化け物を探す。春信を失う恐怖に比較したら、化け物から感じる恐怖も消し飛んでいた。

 化け物はすぐに見つかった。やはり化け物は春信の方に向かっていた。

「うわあああああああ」

 雄叫びを上げながら、みつやはつんのめり気味に駆け出した。頭の中は一つ。自分のせいで春信を失いたくない。

「お、おい、みつや!」

 後ろから朋康がなにか言っていても無視する。け物は小さな脚を俊敏に動かし、既に春信の背後に一飛びという位置に接近している。

「春信、後ろを見ろぉ!」

 みつやは燃え尽きそうなくらいに咽を絞り上げる。まだ間に合う。春信が背後から迫る化け物に気付けば、どうにかなる。

 みつやは堅く信じ込む。だが、ここで春信はみつやの想像を絶する動きをした。

「みつや、そんなに慌ててどうしたんだよ、、悪いが良く聞こえなかった、もう一回言ってくれ」

 いくらなんでも春信の鈍感は度が過ぎていた。
 化け物のことなんて眼中に入っていない。みつやの必死の呼びかけもほとんど届いていないのだ。

 春信が向きをかえた為に化け物は後背を襲うのに失敗した。それでも、化け物は春信の真横を捉えている。
 最早、化け物は春信の顔面に向かって飛びかかる寸前だった。

 死ぬ。春信が死ぬ。

 瞼の筋肉を動かし、目ん玉をかっぴらいて、みつやは探す。具体的ななにかがあるわけじゃない。
 木の枝、石ころ、転がっている物一まとめの中から春信を助ける術を模索する。

 しかし、なにもなかった。なにもかもしっくりこない。違う。全部違っている。
 みつやは一つの術もない。脚だけがひたすら前に出ている。愚直。春信を助けたいという意志によってのみ動いている。

 あぁ、僕も一緒に死ぬのかな。

 みつやの頭の中の覚めた部分が走っている自分の姿を俯瞰。冷や水を浴びせるように諦めを呼びかける。
 みつやの両脚は止まらない。引っ張られるように前へ前へと進む。

 ついに化け物が春信に向かって飛びかかった。

 口を大きく広げ、えげつないトリルを回転させている。春信はまだ気付かない。

 一瞬、春信と化け物の間を遮って、光の柱が現れた。柱は空へと昇り、地面を突き抜けて、消えた。
 残っているのは春信だけだった、化け物は光の柱と一緒に消えていた。


 そして、光の柱の跡には、女の姿が一つあった。

「あれ、ここどこ? どうなってんの、これ?」

 女は不思議そうにキョロキョロと小首を回す。

 聞きたいのはこっちの方だよ。

 本日、最大の溜息を吐いて、べったりとみつやはその場に座り込む。すっかり夜は深くなり、地面は湿り切っていた。